村はずれの彼女の家まではさほど遠くない。朝靄、パンの焼ける匂い、牛糞と化学肥料と藁の入り交じった悪臭、土の匂い、風の匂い、綺麗なものもさほど綺麗でないものも、ジャンヌを産み育てたすべてのものが、ダ・ヴィンチを包み込んだ。
道を一本はさんで、ジャンヌをダ・ヴィンチが認めたその時である。
「どけぇ! どいてくれ!」
警告というよりは、悲鳴そのものの声が聞こえた。
馬車だ。ハネウマに引かれた農作物を運ぶための二輪馬車が、何かに怯えたものか道の彼方から突進してくるのだ。
見たところ、ジャンヌとダ・ヴィンチを巻き込む心配はない。
だが、道の真ん中には今ひとり、まだあどけない子供の姿があった。両親はとうに野良仕事に出ており、ひとりで遊ばされていたのであろう。このような農村ではよくあることだ――そして子供の死亡率は高い。
(間に合わない)
飛び出せば子供は助けられるが、間違いなく自分は助からぬ。馬車の速度、路面の状態、彼我距離、どこを見てもそのような要素はない。
だが。
ジャンヌは飛び出した。
ダ・ヴィンチのことなど見てもいない。いささかの迷いもない。確信を持って、子供をほとんど体当たりで、道の脇へと投げ飛ばした。
泥の中に、子供がはまる。泣き出すが、怪我はないだろう。
だが、間違いなくジャンヌは間に合わない。ダ・ヴィンチの反応も遅れた。当然だ。予測出来るはずがない。
しかしジャンヌは笑ったのだ。
泥まみれの道の中で、怯える子供に向かって、
「大丈夫よ」
と笑いかけたのだ。
ダ・ヴィンチはその表情に、確かに彼女が天啓と呼べるものを受けているのだ、と直感した。そうでなければ、どうしてこのように笑うことができるだろうか。
もはや馬車はジャンヌに肉薄している。飛び退く余裕などあるはずがない。御者の恐怖の表情、ハネウマの鼻息までがありありと見える。
だがジャンヌは笑っていた。
その表情は、狂信でも迷妄でもなかった。
確かに見えているのだ。自分がその行動を取ることへの確信が。
なぜ、と問う。
観察をする。
だがその観察の中に答えはない。