ジャンヌ・カグヤ・ダルクという少女は、凛々しかった。
愛らしい、という表現が似合う年頃ではない。胸乳にせよ腰つきにせよ、それは大人の成熟しきったもので、もはや子供めいた表現のふさわしい年ではない。
が、そこに淫らがましい印象はない。同じ村の若者たちと乳繰り合うことだけが楽しい、という娘たちとは違う、気高さとか清楚さとかそのようなものがあった。
背筋はきちんと伸び、骨格とそれを支える筋肉の健やかさをうかがわせる。
風に揺れる黄金の髪はよく手入れをされていて、村の麦穂を思わせる豊かさを感じさせた。
衣服は決して贅沢なわけでも最新流行というわけでもなかったが、丁寧に仕立て直されて彼女の肉体によくフィットしており、針仕事の巧みさは集中力の高さと仕事への情熱を表わすものだ。
それらすべての印象を総合すると、これは色気があるとか愛らしいという言葉ではなく、凛々しい、という中性的なものになろう。誰かに媚びることで生きるのではなく、自分自身の意志と誇りに従って生きてきた人間だけが持つ美がある、としか表現のしようがなかった。
「ディ・モールト」
村に一軒の旅籠の窓から遠めがねで彼女を眺めているダ・ヴィンチはそう呟いた。
その視線に、若い男が少女を眺め回している、という言葉から感じ取れるふしだらさの成分はない。
この男に取って、人体というのは世界がそうであるように、観察の対象でしかない。布地を通して見て取れる皮膚、筋肉、内臓、骨格、そうしたものの集合体なのだ。そのようなものに劣情を抱くことはない。人体とはもっと高度な、神の作った芸術品なのである。
「人のあり方、内面は外見と無縁ではない。産まれ持った美醜や、骨相学のような迷信の話ではなく、どのような生活をしているかは如実に姿勢に現われ、顔立ちにはその人生で身につけた表情が反映され、衣服からは暮らしぶりが、歩き方と瞳の色からは内臓の健康が、そうしたものが伝わってくる」
思考を言葉にしてみせるのは、ひとりでいるときの彼の癖のようなものだった。
脳内を駆け巡る無数の思索を、発話を通して形にしているのだ。
「だが、美しいだけならば誰にでも出来る。ただ美しく生きればいいのだから」
客観性の欠片もない、美学の権化のようなセリフを口走りながら、ダ・ヴィンチは遠めがねから目を離した。