旅という言葉は、古語では“自分をむち打つ”という意味があるという。
遠い昔、人類が視界に入る集落だけを世界としていたころ、外の世界に旅立つというのは、自分をむち打つのに等しい苦行だった、というわけだ。
だからというわけではないが、ダ・ヴィンチは旅に飛空船も馬車も使おうとはしなかった。アーサー王の宮廷における地位を考えれば、それくらいの贅沢は許されるだけの金を持ってはいたが、楽をすればそれだけ彼が求めるものから遠ざかると考えたからだ。
(真理を理解するために必要なことは、ただ知識を覚えることではない。五感でそれを感じて解き明かすことだ)
錬金術師たちはそのように伝えている。
火の熱さを知らないまま、火の温度だけを知っていても意味はない。冬の寒さを知らないのに、雪について論じても愚かしいだけだ。経験と知識は馬車の両輪であり、その双方を備えていて初めて、真理へと到達できるのだ。
寒気が外套を通してダ・ヴィンチの体に入り込んできた。夕暮れが近いのだ。
(あれは)
土埃の向こうに、野ざらしの死体が見えた。それもひとつやふたつではない。夕日に煌めいて見えるのは、刃の輝き。兵士か。わずかに血の臭いもする。まだ新しいということだ。
だが問題はそこではない。
死体にたかっている大人の胴体ほどもある影である。
最初は鴉かと見えたそれは、本来ならばもっと南方の森林に住まう肉食性の巨大な蜂だった。その毒針で水牛を倒し、肉を喰らう類いの凶悪な生物である。当然人間などはひとたまりもない。彼らにとって戦死した兵士などは格好の餌食ということだろう。
そして彼らの食事を妨げようものなら、ダ・ヴィンチもまた彼らの食卓に上ることは間違いない。人は生身で野生動物に勝つことなどはできないのである。
幸い、同種の蜂は幾度かの野外採取でその習性を見知っていた。警戒の踊りを踊る輪を乱さなければ、彼らを刺激することもない。
道を外れ、緩やかな上り坂になっている丘の稜線を歩んで行く。お世辞にも歩きやすくはなかったが、巨大蜂に追い回されることを思えば何ほどのこともなかった。
稜線が途切れた、と思ったその時。
突如、視界が閉ざされた。
予期せぬ巨大な影が、丘の向こうに座していたのだ。
ダ・ヴィンチの身長ほどもあろう、人の顔。
「イクサヨロイ! ディ・モールト、こんなところに!」